お知らせ
2025年07月17日
【関連イベント】Readers of the Qur’an: Beyond Boundaries 実施報告掲載
2025年2月9日に国際ワークショップ「クルアーンの読み手たち―境界を越える」(Readers of the Qur’an: Beyond Boundaries)を当研究所主催イベントとして開催いたしました。
当基幹研究メンバーが企画したイベントのため、本サイトに実施報告を掲載いたします。
※For the English version, please see here。
| Date / Time | Sun 9 Feb 2025, 12:50–18:00 |
|---|---|
| Venue | Room 303, ILCAA |
| Language | English |
| Organized by | ILCAA |
クルアーンとはイスラーム教における「啓示の書」で、アラビア語で記されている。同書を誰がどのように読んできた/読んでいるのかという問いについて、現代的な諸相をとらえてみようと企画されたのが本ワークショップである。クルアーンの読み手は長らく、アラビア語やイスラーム学の専門的訓練を受けたムスリムの男性知識人ら(「ウラマー」と呼ばれる人々)に限られていた。ところが20世紀以降、識字率の向上や新しいメディアの出現、アラビア語から他言語への翻訳の普及などによって、知的背景や経験、性別、宗教的帰属の異なる人々へと、クルアーンの読者層が大幅に拡大していった。現代における読み手の多様性は、本ワークショップに登壇した7人の報告者にも反映されている。
開会に先立ち、クルアーンの朗誦をおこなったのは、ウズベキスタンの首都タシュケントのモスクでイマームをつとめるハサンハン・アブドゥマジトフ氏である。ウラマーの一人であるハサンハン氏は、第1部「グローバルな経験」において、中央アジアにおけるクルアーン教育の歴史を報告し、伝統的教育機関の繁栄と発展、ソビエト連邦政府統治下での抑圧、その後の復興について語った。一方、モーリシャス出身のシャウカト・トーラワ氏は、米イェール大学でアラビア語とアラブ文学、クルアーン翻訳にまつわる研究・教育に従事する近代的知識人である。クルアーンの英訳をめぐる自身の試行錯誤の経験を背景に、翻訳者たちがこれまで行ってきた試行錯誤や挑戦について紹介した。女性の視点や経験をもとにクルアーンを読むことをめぐって報告したのは、米国の研究者セリーヌ・イブラーヒーム氏である。「ムスリマ神学」と呼ばれる動きの歴史と、近年における広がりや深まりが、多くの事例とともに提示された。同じく、現代の女性たちとクルアーンの関わりに着目したのが、AA研でパキスタン研究に従事する須永恵美子氏である。須永氏は、ラホールのモスクで行った女性たちの勉強会での調査をもとに、クルアーンを読むという行為と日常生活との密接な結びつきの様を示した。
第2部「日本における経験」では、まず『クルアーン やさしい和訳』の翻訳者であり、イスラーム思想・文化の研究者として多くの著作をもつ水谷周氏が登壇した。水谷氏は、日本におけるクルアーン翻訳の歴史を概観し、自身が新たな翻訳を加えることに至った理由や経緯と、より多くの人々に「読まれる」ものとなるための工夫について語った。パレスチナ研究者で、パレスチナと日本にルーツをもつハーニ・アブデルハディ氏は、近刊の翻訳書である『クルアーン 日本語読解』にたずさわった一人である。アブデルハディ氏は、日本社会の抱える問題を意識する中でクルアーンの世界観に触れた際の自身の感覚を「パラダイム・シフト」と呼び、その思想的経験について論じた。最後に、クルアーンの日本語訳を研究してきた後藤絵美が、非ムスリムによる翻訳の歴史と、それらの訳者らがクルアーンにどう向き合い、それをどう読もうとしてきたのかを、井筒俊彦の『コーランを読む』を一例として紹介した。
全体を通して明らかになったのは、クルアーンを読むという行為が、政治的・社会的文脈の影響を受けてきたこと、そして近年における読者層の拡大は、読み方のバリエーションをも押し広げてきたことである。ディスカッションで話題になったのもこれらの点であった。とくにクルアーンという「啓示の書」の読み手や読み方の変化や拡大をいかに捉えるべきかという点については、活発に意見が交わされた。各報告およびディスカッションについての詳細は、以下の学生の皆さんによる報告文を参照されたい。当日は40名ほどの参加者を得て大いに盛り上がり、第2弾を待ち望むという声もさっそくいただいた。今後、続編の企画を検討したい。
報告文:後藤絵美(東京外国語大学AA研)
Program
(Click to open.)
12:50 Recitation of the Qur’an by Imam Khasankhon Abdumajitov
13:00 Introduction (Dr. Emi Goto)
Part 1: Global Experiences
13:10 “Doing the Qur’an Justice in English” (Prof. Shawkat Toorawa)
13:40 “The Qur’an Education in Central Asia: Past and Today” (Imam Khasankhon Abdumajitov)
14:20 “The Qur’an and Constructive Theology” (Dr. Celene Ibrahim)
14:50 “Qur’an Behind the Veil: Exploring the Lived Experiences of Pakistani Women” (Dr. Emiko Sunaga)
15:20 Break
Part 2: Japanese Experiences
15:40 “Trends of the Qur’an in Japanese: Predecessors and My Task” (Dr. Makoto Mizutani)
16:10 “Paradigm Shift: From Japanese Norms to Quranic Worldview” (Dr. Hani Abdelhadi)
16:40 “The Qur’an as a ‘Classic’: Some Approaches for Non-Muslim Readers” (Dr. Emi Goto)
17:10 Break
Part 3: Discussion
17:20 Comment&Moderator: Prof. Jin Noda (ILCAA, TUFS)
17:50 Closing Remarks: Prof. Masato Iizuka (ILCAA, TUFS)
Reports
報告1 Prof. Shawkat M. Toorawa “Doing the Qur’an Justice in English”
Imom Khasankhon Abdumajitov氏による『クルアーン』夜の旅章9-15節の荘厳な朗誦で幕を開けた本ワークショップの最初の発表は、イェール大学のShawkat Toorawa教授による、「Doing the Qur’an Justice in English」と題された発表であった。発表者は『クルアーン』の英語訳に取り組む中で、特に視覚的・聴覚的な課題に着目し、その上で色分けや、二人称(単数・複数)の明示、場面設定の説明等を訳中に導入したほか、それ以前の試みとして、アメリカ風の挿絵を導入した大胆な訳書を紹介した。これらは翻訳先の言語を尊重する姿勢からきており、英語を母語とする『クルアーン』読者に対し、その内容を明快に理解してもらう意図があるという。
翻訳という作業においては、当然翻訳元の言語の語義を翻訳先の言語へと正確に変換して伝達することが求められるし、神聖性を帯びる聖典ならなおさらである。この点に関して質疑応答で質問者と発表者との間に激論が交わされたのは、それが聖典の正統性の担保という、宗教の原則ともいうべき事項に関わるものだったからであろう。『クルアーン』に関して言えば、アラビア語で伝えられた唯一神の啓示を他言語で理解する際、その理解度をアラビア語母語の話者のそれと同等にするよう働きかけることは、啓示の聖性を保つことと両立しうるのかというのが、これからも続く翻訳の問題であると報告者は考える。とはいえ本発表で、発表者が本ワークショップの主題である「『クルアーン』の読者」は既に地域、民族、さらには宗教でさえも越境しているということを看破したことは言を俟たない。
報告文:渡邉琉可(東京外国語大学国際社会学部)
報告2 Imam Khasankhon Abdumajitov “The Qur’an Education in Central Asia: Past and Today”
本講演では、中央アジアにおけるクルアーン教育の歴史を概観した。7世紀ごろ、中央アジアにクルアーンが伝わり、最初はペルシャ語の翻訳を通じてクルアーンが学ばれた。8世紀初頭、イスラーム帝国が中央アジアを征服すると、大規模なクルアーンの口述教育が始まり、正式な宗教教育機関も設立された。やがてモスクやマドラサが設立され、クルアーンの記憶・朗誦を専門とする教育機関が発展した。ウズベキスタン西部のシャフリサブスには、特にクルアーン朗誦のための施設が存在した。19世紀までに、ウズベキスタン東部のフェルガナ地方には多くのクルアーン学校があり、特にアンディジャン市には44校が存在した。
1917年のロシア革命の後、ソビエト連邦政府は宗教教育を徹底的に弾圧した。イスラーム教育機関は閉鎖され、多くの宗教指導者が処刑・投獄された。しかし、一部の学者たちは地下活動を行い、秘密裏に自宅でクルアーン教育を続けた。1943年、中央アジア・カザフ宗教局が設立され、一部のモスクが再開した。1991年のソ連崩壊後、ウズベキスタンをはじめとする中央アジア諸国でイスラーム教育が復興し、現在では多くのイスラーム教育機関が運営されている。現在、ウズベキスタンには3つの大規模なイスラーム大学があり、カザフスタンやキルギスにも多くの教育機関が存在する。
現在、中央アジアのムスリムの多くはアラビア語を知らなくてもクルアーンを暗唱できるようになっている。中央アジア出身のクルアーン朗誦者が国際大会で優勝するなど、その発展が世界的に評価されている。ウズベキスタンでは、毎年4〜5万部のクルアーンが印刷・配布されており、イスラーム学習が広がっている。また今後、中央アジアで18〜19世紀にクルアーンを教えた教師たちの伝記や系譜をまとめた書籍が、ウズベク語とアラビア語で出版予定である。イスラーム教育の歴史とその影響を詳細に記録することで、学術的な研究を深めることが目的とされている。中央アジアにおけるクルアーン教育は、イスラームの伝播以来、長い歴史を持つ。ソビエト連邦時代の厳しい弾圧を乗り越え、現在では再び盛んになり、国際的な評価を得ている。今後もこの地域のイスラーム教育の歴史が研究され、記録されていく予定である。
報告文:村田光(東京外国語大学国際社会学部)
報告3 Dr. Celene Ibrahim “The Qur’an and Constructive Theology”
Celene Ibrahim博士による報告“The Qur’an and Constructive Theology”は、欧米におけるイスラーム構成主義神学の発展について、特にムスリマ神学に焦点を当てて行なわれた。ムスリマ神学はムスリム女性を中心に置き、女性の経験や彼女たちのクルアーンとの関わりに端を発し、現代女性の生活や日常的にムスリムが直面する困難に応じるものである。本報告では、これまで男性が支配的な役割を果たしてきたイスラームの知的伝統の中で、女性の果たす役割を拡大していくムスリマ神学のこれまでの過程並びにこれからの可能性が紹介された。これまでのムスリマ神学の過程についてはAnnemarie Schimmelをはじめ、多様な研究者やその研究、著作が提示され、彼女らの残した功績がどのようにムスリマ神学を方向づけていったのかが示された。また、このロードマップに見られる研究者が世界の様々な場所にルーツを持っていることが強調され、ムスリマ神学は国際的な協力の試みであることが述べられた。
本報告の中でも、様々な原点を持つ研究者がイスラームにおける知的な営みの中に女性を中心的に位置付けるという目的のもと様々な視点やディシプリンから研究を行っているという事実は非常に興味深かった。これらの研究者がどのように協働しているのか、あるいはこれまでの蓄積がどのように現在のインターディシプリナリーアプローチを形成してきたのかという問題についてさらに詳しく議論を行えば、男性が長い間メインストリームを占めてきたイスラーム以外の宗教研究、さらには研究という行為そのものにおいても、女性の中心化のための新たな可能性を見出すことができるかもしれない。
報告文:矢崎未來(東京外国語大学大学院総合国際学研究科)
報告4 Dr. Emiko Sunaga “Qur’an Behind the Veil: Exploring the Lived Experiences of Pakistani Women”
AA研の須永恵美子氏は、”QUR’AN BEHIND THE VEIL: Exploring the Lived Experiences of Pakistani Women”と題し、内輪的な勉強会である“Dars”の事例をもとに、パキスタン人女性がイスラームを学ぶ様相を報告した。パキスタンの学校において、クルアーン教育は初等教育から大学まで必修科目であるが、大学受験の科目には含まれていないほか、暗唱や読誦法、発音に重きが置かれ、意味や解釈には及んでいない。しかし、女性がモスクで集まって開かれるDarsでは、アラビア語の解説や読誦法ではなく、クルアーンの教えと日常生活と結びつける方法で学びを深めている。須永氏は、実際にパキスタンのラホールにあるモスクで行われていたDarsに参加し、講師の女性が自身の経験と結びつけて話す内容を紹介した。「許されたものを禁じられているとするべきではない」という教えの事例には、ラホールはパンジャブ州に位置しておりインドとの関係も根強いことから、土着の風習としてムスリムであっても牛肉を避けることがある例を挙げ、イスラームが牛肉を避けるようおしえているわけではないことを講師は強調する。このように、情報交換や外出の機会となるだけではなく、Darsは堅苦しさのない雰囲気で、日常生活にクルアーンの教えを落とし込むことでよりイスラームを深く学ぶという大きな役割を果たしているのである、と須永氏は結論付けた。
クルアーンの原文であるアラビア語が母語ではないパキスタンの人々にとって、まずは発音や暗唱を優先することは、日々の崇拝行為に必要であるという観点からも自然なことと考えられる。学校教育でそのような体制が敷かれる一方で、女性たちが集まるDarsでは、あえてアラビア語の学習から離れ、自身の生活にクルアーンの教えを結びつけるという実践的な理解が重視されている点が興味深い。というのも、単なる知識の蓄積ではなく、個々の価値観や社会との関わりを通じてイスラームへの理解を深めていくことが重要であることを示唆しているからである。Darsが女性たちを社会的に結びつけ、自己表現の場としての役割も果たしていることを考えれば、インターネットを活用した新たな学習の形態が生まれる可能性もある。例えばオンラインDarsの普及により、女性が自身の宗教理解を発信し、他者の見解を受け取る機会が増えていくことは十分に考えられる。須永氏が参加したDarsの報告は約10年前のものだったが、時代の変化とともに女性たちのDarsがどのように発展していくのかを探ることにも意義があるだろう。
報告文:中山早春(東京外国語大学言語文化学部)
報告5 Dr. Makoto Mizutani “Trends of the Qur’an in Japanese: Predecessors and My Task”
本講演ではまず、講演者である水谷氏自身のクルアーンとの最初の出会いについて語られた。同氏は京都の寺院に生まれ、父親のたくさんの蔵書の中にあったクルアーンの英訳や戦前の日本語訳を手にしたことが幸運な出会いだったと述べた。次に、クルアーンの日本語訳の系譜について説明した。1950年代には井筒俊彦による学術的な翻訳が行われたが、これは7世紀のアラビア世界を忠実に再現しようとし、強い口語表現が用いられたため一般読者には難解であった。1970年代には三田了一による翻訳が試みられたが、印刷ミスがあり、広まらなかった。1982年には日本ムスリム協会による翻訳が発表され、準標準的な日本語訳として広く受け入れられるようになった。2014年には、中田考らによるアラビア語の厳密な文体を反映させた翻訳が発表されたが、代名詞の過剰使用により読者にとって理解しやすいものではなかった。1988年にアハマディーヤによる翻訳が、2013年にはシーア派の澤田達一による翻訳がそれぞれ刊行された。近年ではサウジアラビアやトルコの財政支援を受けた翻訳も登場し、日本におけるクルアーン翻訳の流れは、学術的関心から宗教的信仰の確立へと変化している。いずれの翻訳も、日本社会にイスラームを伝えようとする誠実な努力の結果である。
水谷氏自身の翻訳プロジェクトについても紹介された。同氏は2019年に『クルアーン やさしい和訳』を発表し、クルアーンを現代日本語でより分かりやすく伝えることを目指した。従来の翻訳が難解であるという読者の声を受け、特にイスラームに関心を持つ日本人や学び始めた人々にとって親しみやすい翻訳を意識した。翻訳においては、いくつかの点に留意した。たとえば、これまでの翻訳で用いられてきた「聖クルアーン」という表現はキリスト教の影響を受けたものであり、本来のイスラームの概念とは異なるため、使用しなかった。また、賛美の表現である「サッバーハ」と「ハマダ」の意味の違いを考慮し、正確に訳し分けた。さらに、イスラームの倫理観を正しく伝えるために脚注を充実させ、日本文化を考慮した解説を加えた。また、日本におけるイスラーム理解を深めるため、倫理や道徳の概念を強調した。日本の倫理観は儒教や仏教の影響を受け、実践的な道徳が重視される傾向がある。一方、イスラームでは倫理観が神への信仰と密接に結びついており、こうした違いを明確にしながら翻訳を進めた。
現在、同氏の翻訳プロジェクトはインドネシアの財団から支援を受け、100万部の無料配布を進めている。同氏は、ムスリム以外の日本人にもイスラームに関心を持ってもらうことを目指している。最後に、日本語の変化についても言及された。日本の聖書協会では約30年ごとに翻訳を改訂する方針をとっており、これは日本語が時代とともに変化するためである。水谷氏は、同様にクルアーンの日本語訳も将来的には新たな翻訳が必要になる可能性があると述べた。
報告文:村田光(東京外国語大学国際社会学部)
報告6 Dr. Hani Abdelhadi “Paradigm Shift: From Japanese Norms to Quranic Worldview”
本発表は、パレスチナ系ムスリムの父と日本人の母をもつ発表者が、現代日本社会の思想的問題点を喝破し、それを解決するものとして『クルアーン』の世界観を提示したものである。発表者自身のバックグラウンドの紹介に始まり、日本社会が無宗教的、理性主義、科学崇拝に基づいていること――とりわけ戦後普及した「日本教」が流動的で不安定であること――を指摘し、そして資本主義と国民国家を妄信し、虚無主義を強める現代社会を痛烈に批判した。その上で、「存在が必然Wājib al-Wujūd」である神による形而上的に構造化された世界の枠組みや規範としての『クルアーン』を、社会の代替案として提示した。
一神教やそれに由来する世界観を日本に応用させる試みはこれまで多くの識者によってなされてきたが、とりわけ日本社会とイスラーム社会の両方をバックグラウンドに有する発表者による今回の発表は、その主張を実感あるものとして強めた。一方で、戦後日本社会の核心の分析についてはなおも慎重にならなければならないことは、野田仁教授がコメントの際に異見を示唆したことからも明らかであろう。現代まで続く日本社会や日本文化に特有の形而上的な観念を一神教のそれと対置させるのは、たとえそれが『クルアーン』ほど教条的でなかったとしても、簡単なことではない。
余談ではあるが、報告者にとっては、本発表は小説家である遠藤周作を想起せずにはいられなかった。カトリックの信徒であった彼が、自身の作品の中でしばしばキリスト教――イスラームと同一の神を崇拝する一神教――ないし西欧文明と日本社会を対比させて描写したことは有名である。彼の代表作である『沈黙』の初版から来年で60年となるが、現代日本社会は果たして、遠藤周作や発表者に対して明確で説得力のある答えを用意しているといえるのだろうか。
報告文:渡邉琉可(東京外国語大学国際社会学部)
報告7 Dr. Emi Goto “The Qur’an as a ‘Classic’: Some Approaches for Non-Muslim Readers”
AA研の後藤絵美氏は、”The Qur’an as a “Classic“”と題し、日本の非ムスリム読者がクルアーンを「古典」としてどのように理解し、読解できるのかという視点を提示した。まず「古典」とは何かという定義を示し、クルアーンが単なる宗教書ではなく、現代にも価値を持つ文学作品であるという見方が示された。日本におけるクルアーンの翻訳の歴史にも触れ、1920年の坂本版から2021年の東京ジャーミイ版までの主要な翻訳を紹介し、特に、大川周明や井筒俊彦の研究を取り上げた。井筒はクルアーンを単なる宗教書ではなく、「人間記録(ヒューマン・ドキュメント)」として捉え、ムハンマドの生涯や思想を背景に翻訳を行い、クルアーンを理解するためにはそれが神の言葉としてムハンマドに語られた「独白」であること、また啓示の状況を知ることが重要だと主張する。さらに、アラビア語の語彙や概念を比較文化的に分析し、日本人にとって親しみやすい形で解釈する試みを行った。例えば「raḥmān(無条件の慈悲)」と「raḥīm(応答的な慈悲)」というアラビア語の概念を仏教の慈悲と比較し、日本の読者に理解しやすい形で提示した。後藤氏は、クルアーンの読解方法は一つではなく、日本の非ムスリム読者にとっても異文化理解の手掛かりとして、また重要な「古典」としての価値を持つと結論付けた。
クルアーンの翻訳について考える際、原文のリズミカルな文調を反映させるか、またはメッセージを厳密に伝えるために意味の反映に重きを置くのか、という選択が必要になるだろう。井筒は、クルアーンを口語的に訳しただけではなく、比較文化的に分析することで、イスラームに明るくない非ムスリムでも世界観に触れやすくなる可能性を拓いた点が評価されるべきである。というのも、単なる逐語訳ではクルアーンの本質的なメッセージやその持つ響きを完全に伝えることが難しく、日本語の読者にとっては異質で理解しづらいものになりかねないからである。このアプローチは、クルアーンを単なる宗教的な啓典ではなく、一つの「人間記録」として捉え直し、文化を超えて共感をもたらす普遍的なメッセージを引き出すことにつながるだろう。それはイスラームを外部の宗教として日本社会と分断せず、共通項を見つけ出していく手掛かりにもなりうるのかもしれない。クルアーンの日本語訳が次々と刊行されるなかで、ムスリムがマイノリティである日本において、非ムスリムを読者として想定していくことは大きな意義を抱いていると言えるだろう。
報告文:中山早春(東京外国語大学言語文化学部)
ディスカッション
AA研の野田仁氏によるコメントでは、本ワークショップの焦点が主に翻訳の可能性と教育、現代社会におけるクルアーンの役割にあったことが示された。その上で、オリジナルのクルアーンと翻訳の間のバランスをどのように取るべきかという質問が投げかけられた。
この質問に対し、クルアーンの翻訳には多様なニーズが存在するため、様々な種類の翻訳が求められているが、これは多様な翻訳に挑戦できるだけの余地があるという点で素晴らしいという評価が行われた。また、ウズベキスタンではクルアーンを学習する人々の年代に合わせて暗記やアラビア語の習得を通じた内容の把握、ウズベク語訳を通じた内容理解など様々な方法が採られていることが紹介され、一方でクルアーンの翻訳がその複雑性ゆえに非常に困難であると述べられた。
また、クルアーンの翻訳あるいは解釈を誰が担うべきなのかという問題についても議論が行われた。非ムスリムで神を信じていない場合、神からのメッセージであるクルアーンをどのように翻訳できるのかという質問に対し、非ムスリムによるクルアーン翻訳は実際にすでに行われた試みである一方、最良の翻訳者はムスリムであり、非ムスリムの翻訳者もムスリムの手によるタフスィールを参照していることが述べられた。さらに最良の翻訳者であるためにはムスリムでなければならないのかという点について、ムスリムであるかどうかは必ずしも重要ではなく、テキストに対して適切な態度で取り組み、内容に敬意を持っているかどうかが求められているという意見も出た。ここでは、ムスリムの多くはクルアーンにアラビア語以外の言語で触れることから、クルアーンのテキストはより多くの人に開かれていなければならないと強調された。
さらにクルアーンの翻訳について、その翻訳がオリジナルの内容と一致していることを保証するガイドラインは存在するのかという質問が出た。これに対して、組織的な制度や権威は存在しないこと、多様な翻訳を通じてブラッシュアップされていくことが回答された。さらに翻訳の多様性にも意味があり、議論や対話の重要性を強調する回答もあった。また、我々自身が自らガイドラインを作り、受け入れがたい翻訳についてはその旨を発信しなければならないとも述べられた。一方で翻訳は専門家によって行われなければならないという考え方、翻訳の推奨や承認を行う組織の存在についても触れられた。
これらの議論の中でも興味深かったのが、イスラーム研究に携わっているという立場を共有していながらも、クルアーンの翻訳というテーマにおいて必ずしも参加者全員の意見が共通することはなく、それぞれが微妙に異なる立場に立っていることである。この受容における多様性は、イスラームが生きた信仰の対象として存在し、イスラームを信仰しつつ研究することが一般的に行われているために発揮されていると考えられるが、これこそがイスラームやクルアーンの研究における多様性に繋がり、イスラーム研究をより魅力的なものにしている要因であるように思えた。
報告文:矢崎未來(東京外国語大学大学院総合国際学研究科)